薬師瑠璃光如来本願功徳経

薬師如来の説法を聞く十二夜叉神将

Bhaiṣajyaguru-vaiḍūrya-prabhā-rāja Sūtra

薬師瑠璃光如来経

通称『薬師経』Bhaiṣajyaguru Sūtra

薬師寺が創建された時期については本薬師寺からの移転説と現薬師寺が奈良時代に新築された説があるが、本薬師寺の天武天皇による伽藍創建の発願が六八〇年で、もし移転説に従うと六八六年には三尊像が完成されたとみられるので、当時、最新の薬師如来経は玄奘訳の『薬師瑠璃光如来本願功徳経』となる(以後「薬師如来経)と略)。訳した玄奘に第二回遣唐使(六五三)の道昭が弟子入りしており、六六〇年に帰国しているので、薬師三尊制作に、これを参考にした可能性は高い。道昭は六八〇年に天武天皇の勅命で往生院を建立。七〇〇年に没した。天武天皇は皇后の病気回復を願って薬師寺創建発願に至る前には、道昭から玄奘訳の薬師如来経について聞いていたかもしれない

薬師如来経の登場人物は世尊、世尊の説法を聞く修行者、菩薩、大衆などと、その世尊と受け答えする人物として曼殊室利(文殊菩薩)、求脱、阿難(アーナンダ、多聞第一)などが登場する。 

説法の中心は東方浄瑠璃浄土にいる薬師如来が菩薩の道を修行していた時に立てた十二の大願についてである。第一と第二の大願は悟りを得た後、如来自身がどのようになるかを言う(例えば三十二相を備えること)第三から第十二の大願は悟りを得た後、様々な困難にある衆生を救うことを言う。

例えばよこしまな道を行ずるもの、他人の教えを聞かないもの、戒律を損なうもの、種々の病気に苦しむもの、女故に悟りを得るのが難しいもの、偏見にとらわれているもの、国の法律で、鞭うたれ、牢獄に繋がれているもの、飢え渇きに悩まされ悪行をなすもの、貧しく衣服もないものなどを救うと言う。 

東方浄瑠璃浄土には日光月光菩薩がいること、さらにどのような生き方をすべきかが説かれるが、この部分が全体の四分の三くらいあり、最後の部分は次の通りである。 

その説法の会座に十二薬叉大将がいた。この十二薬叉大将は各々七千の夜叉を眷属としていた。十二薬叉大将は同時に声を挙げ、釈尊に申し上げた。「世尊よ、我等、仏の威力を蒙りて、世尊薬師瑠璃光如来の名号を聞くことを得ました。我等は相率いて、皆心をひとつにし、かつ形を尽くすまで仏法僧に帰依いたします。もしこの経を流布させ、あるいはまた薬師琉璃光如来の名号を受持して恭敬供養する者があれば、われら眷属はこの人を衛護して、一切の苦難を解脱させ、もろもろの願いをことごとく満足させましょう。」それを聞いて、世尊は「善哉善哉大藥叉將」と褒めた。 

 薬師如来経には十二神将の名前が書かれている。しかし、名前だけで、それ以外には、例えばその様子や持物など一切書かれていない。前述したように儀軌などにその持物などの特徴が書かれるのは薬師寺金堂薬師三尊制作より後のことである。しかも、その名前から、各神将の特徴を想像することは難しい。

薬師経に記載されている十二神将の名前はサンスクリット語の音訳で、インド古来の神々が仏教に取り入れられたものと考えられる。例えば、宮毘羅(クビラ)大将はクーベラであり、因達羅(インダラ)大将はインドラである。

ところが因達羅(インダラ)大将となったインドラは帝釈天にもなった。もともとバラモン教の神であるインドラは帝釈天となり、ブラフマーは帝釈天の対である梵天になった。インドラとブラフマーの二神は出自も性格も誕生した時期も異なるが、帝釈天・梵天という釈迦の守護神としてクシャーン朝(一世紀中頃~三世紀中頃)の仏伝図や仏三尊像の中で釈迦の一対の守護神としての役割を確立している。

同様にクーベラは十二神将の宮毘羅(クビラ)大将となったが、毘沙門天にもなった。毘沙門天は北方を守護する四天王であるが、毘沙門天は主に北方を守護する天として独立して制作、拝まれるときの名称として使われることが多く、四天王の一としては多聞天と呼ばれることが多い。

現存する最も古い四天王像は紀元前一世紀初めごろの制作と推定されているバールフットのストゥーパの北入口に多聞天に当たるクーベラ・ヤクシャ、南入口に増長天に当たるヴィルーダカ・ヤクシャの浮彫立像が尊名を伴って立っている。多聞天の下には蹲る邪鬼がいる。邪鬼は太鼓腹で四つん這いになって多聞天を支えている。日本の邪鬼のように敵対関係で踏みつけられる関係ではない。この邪鬼もヤクシャの一形態である。

「世界美術全集インド」より

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