薬師如来の周りにあった十二神将

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町田甲一は昭和五十九年、長和四年(1015)の『薬師寺縁起』の記述で金堂内には本尊の前と左右に宝亀(770~781)頃につくられたと伝えられる十二神将像があったことを指摘し、龕形内の十二体を十二神将にあてる説に疑問を呈した。[i]

 十二神将像があったことは『七大寺巡礼私記』(1140年)にも記載されている。[ii]

 薬師三尊像は藤原京の本薬師寺から移座された説と、現在の西ノ京の薬師寺で新鋳された説がある。新鋳説では養老から神亀年中(717~729年)制作とも言われる。宝亀(770~781)頃に十二神将が造られたのならば、本尊制作から四十~六十年位で十二神将も造られたことになる。もし、そうであれば、台座の十二体が十二神将でないことが、よくわかったうえで別に十二神将を新たに補うために作ったという可能性が高くなる。

また、『薬師寺縁起』、『七大寺巡礼私記』で、この十二神将は上代別當弘耀大僧都奉造とあり、弘耀が別当に任じられたのが宝亀年中ゆえ、十二神将の制作年代はこのときであろ うと推察されるのだが、弘耀は753年には薬師寺寺主法師であったので、もし、養老から神亀年中に新鋳されたのなら、おそくとも新鋳から二十から三十年内には薬師寺にいたことになり、もし、台座の異形像が十二神将でないなら、それを知ったうえで十二神将を作ったという可能性はさらに高くなる。

それでも十二神将である可能性はある。

1.薬師如来移坐説。移座説の可能性は現在では小さいのだが、これによれば688年に制作されたと推定される本薬師寺の本尊が現在の像であるといい、十二神将が宝亀(770~781)頃につくられたとすると八十年から九十年後のことであり、当初の台座の異形像が十二神将であっても、その認識が薄れていたとも考えられる。

2.『薬師寺縁起』に記載されたこの部分は古老の言い伝えであり、他に裏付ける史料がない。たとえ薬師如来新造説でも『薬師寺縁起』、『七大寺巡礼私記』が書かれたのは像の制作から三、四百年近く経っており、言い伝えの真偽は幾何であろうか。

十二神将があったのは確かであろうが、制作年は宝亀年中よりもっと後かもしれない。そうであれば、その時には当初の台座の異形像が十二神将であるという認識が薄れていたかもしれない。 

3.たとえ本尊制作から四十~六十年位で十二神将が新たに造られたとしても、また、その時に、台座に十二神将がすでに表現されているという認識があったとしても、例えば、あまりに人々の持つ十二神将のイメージから遠すぎたために、新たに制作することになったということも有り得る話であろう。

備考

 [i]薬師寺縁起  「薬師寺」三四五頁 古老傳云、件佛像、従本寺七日奉迎之、 又二躰観世音ぼさつ像坐、高((寸法記サズ)) 〔一躰〕流記帳云、奉為難波那我良豊前宮治天 下天皇孝徳天皇也、皇后御願云々、夢躰所由不分 明、或説云、水尾天皇御願云々、或涼(清)和御願云々、 又帳外壇下佛前幷左右、造立綵色十二 藥匁((叉カ))大将像十二躰、高各七尺五寸、 右(古)老傳云、件十二神将、上代別當弘耀大僧都 奉造云々、 [ii]七大寺巡礼私記 〔翻刻〕 藥師寺 金堂五間四面瓦葺、重閣各有裳層、仍其造様 四蓋也、毎層有木繪、花榱口桷皆餝金鐺、 中尊金銅丈六薬師像須彌坐、身光刻付半出七佛 藥師像、又縁光彫飛天十九躰、其須彌炎刻賓塔 一基、彼塔□(上)□(立ヵ)三柱之九輪、尤以奇、子細可尋、 脇侍金銅日光月光井像、 已上斯三尊、口傳云、持統天皇之所造立給也云々、 十二神將像高七尺五寸、斯者上代別當弘躍大僧都之所造也云々、

ちなみに『薬師寺縁起』、『七大寺巡礼私記』に書かれている十二神将が具体的にどんなものであったか詳細な記述はない。現存する最古の十二神将像である新薬師寺の十二神将像は天平年間(729ー749年)の制作であり、すべて甲冑姿の武将像である。それから二十~三十年後の宝亀年中にもし作られたとすれば、その十二神将は新薬師寺の十二神将も参考にし、甲冑姿の武将像であったことはまず間違いないだろう。

  金堂に安置されたという十二神将の状態を想像してみた。現金堂は昭和五十一年再建で創建当時と異なるが、創建の建物は礎石などから本薬師寺と同じプランであったとみられる(図版)。柱間、正面中三間は奈良尺一二・五尺、左右の各二間が一〇尺である。『薬師寺縁起』、『七大寺巡礼私記』によると安置してあった十二神将は高各七尺五寸で二メートルを超える。(現存する十二神将にはない大きなもので、四天王像では興福寺、法隆寺のものが二メートルを超える)。

「壇の下、仏前と左右」にあり、正面六体、左右各三体に配置は可能と思うが、高くて近接し、圧迫感がありそうである。また、感覚的には薬師三尊の明るく、やさしい雰囲気からは、甲冑姿の武将像は似つかわしくないようにも思う

 昭和の仏壇修理で元の仏壇が左右に各一・九尺拡張、二菩薩像の後ろの仏壇は後ろに二・四尺拡張されていたことが分かった[i]。修理後は元の大きさに戻されているが、この拡張は三尊の周りの仏壇上に十二神将を安置するためのものだったとある。しかし、『薬師寺縁起』、『七大寺巡礼私記』に書かれた高各七尺五寸の十二神将はとても拡張された仏壇にも乗り切らないし、仮に仏壇上に置くとすれば、前、左右に置くことにならず、後ろと左右に置くことになるだろう。とすると、さらに、もっと小さい別の十二神将があったのかもしれない。それにしても、拡張されたとはいえ、仏壇上に十二神将を安置するのはかなり窮屈であっただろう。

 どの位置にせよ、すくなくとも、創建時には十二神将像を金堂内に安置するつもりはなく、そのようなスペースを確保していなかったと思う。


[i] 薬師寺修理委員会)『薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書』  昭和三十三年 四十一頁

薬師寺旧金堂『薬師寺』グラフ社
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