切断された台座

台座の秘密

オリジナルの台座の腰部上部は削られ、元のデザインより短くなっている。これは昭和の修理の時にも確認された。[i]

 それより以前、田村吉永は南北面左右の飾り柱の文様が二個一組であるが、下から四個すなわち二組と約六分と中途半端に終わっていること、また、同じ面の中央部の「柱」も、四個個一組の文様が二組と約六分と、これも中途半端に終わっている事、そして両方の文様の組み合わせが丁度の区切りで終わるのは飾り柱で四組の文様の位置、「柱」は五組の文様の位置であることに気が付き、台座上部一尺九寸が削られたと考えた[ii]。その後、これでは、高すぎるとして、久野健は腰部上方が竪框の文様五分の二駒だけ切断されたと解している。この説に従って復原すると、現状とほとんど大差なく、風字形枠内の鬼人の顔が本尊の懸裳によって隠れ、多少低すぎるとして、町田甲一は竪框の文様の一駒と五分の二を削り落したと考え、切断前の状態は、台座前面に垂下する懸裳の下縁が台座の腰部の正面にあらわされた龕の上縁に接することになり、各部のプロポーションの上からも最も適切であるように思われるとしている[iii]。


[i]西村秀雄「冶金学的調査」(『薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書』薬師寺修理委員会、昭和三三年)五十四、五十五頁

[ii]近畿日本鉄道創立五十周年記念出版編集所『薬師寺』綜芸舎 昭和四十年六月「薬師寺総説」二十八ページ

[iii]町田甲一『薬師寺』 グラフ社 昭和五十九年 一九八四年五月一一六頁

(上)現在の台座と三尊位置(下)町田説のオリジナル台座と三尊位置 

『薬師寺』グラフ社『国宝薬師三尊修理』から転用加工

台座現状
台座現状
町田説復元
町田説復元

グラフ社「薬師寺」より

 西村秀雄は「冶金学的調査」(『薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書』薬師寺修理委員会、昭和三三年)五十四、五十五頁で以下のように述べている。

 内面から見ると南面の西寄りの部分は大きい気泡が表面にあらわれている。それが上部に近くなるほど甚だしく、ガスが逃げないで凝固したことを物語つている。中框の上部がタガネで「はつり」切っているのは、この気泡の多い部分を除去したと思われるのである。(中略)

挿図28 『国宝薬師三尊修理報告』より


中框(筆者註:腰部)の表面模様を見ると、上部において模様が半ば切りとられている。そのため後世に中框の上縁を切りとったものという説がある。この修理に際して果してそうであるかどうかを確かめるため上の端面に沿うて見られる鑿で「はつり」切つた痕の「はつり」の手法を調べた。「はつり」痕は四・五㎝から八㎝程度に及ぶ各種の福をもつている。その手法をみると中框以外の地の部分にみるものと全く同様であると推定されるから、この中框は鋳造の当初において上瑞面を「はつり」取つたもので、後世になって切断したものではないと考える。(中略)また中框の南西側の内面は、上部に最も多く気泡の跡が残されているが、これは湯に含まれたガスによるか、型の通気性が悪かつたために空気が逃げられないで残されたものか、中子の砂から発生したガスによるものか、恐らくいずれにも原因しているであろうが、なお湯の流れの悪かつたことも手伝って、かような気泡の跡が残されたものであろう。中框の上縁が表面の模様を中断して上縁が「はつり」とられているのは、単に上縁を上框と組み合わせるためでなくかような上部の欠陥個所を取り除くためであつたのでなかろうかと考えたい。
高過ぎたから短くするために切ったと考えられないのは、型持ちの位置とその分布を調べると、図に示すようであっ たためである。

これから中框の鋳物がこれ以上にあまり高かったとは考えられない。もし高さが、なおかなりあったものなら型持ちが上部にも残されてなければならぬと考えられるが、それがない。また上縁の「はつり」が製作当初のものであることから、後世に切断したものでもない。(傍点は筆者が付けた。)

国宝薬師三尊修理報告
国宝薬師三尊修理報告
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