世界に繋がる台座

四神  葡萄唐草文

四神

「高松塚とキトラ」より
「高松塚とキトラ」より


青龍(東面) 

     外壁で左向き=南面


白虎(西面) 

     外壁で右向き=南面



朱雀(南面)



玄武(北面)

乾陵(高宗と則天武后の合葬陵)の翼馬台座側面の青龍

この中国の青龍は薬師寺にゆかりの深い持統天皇と同時代の則天武后ー中国唯一の女帝ーの陵に描かれたものである。 

『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し建立されたが天武天皇は完成を見ることなく亡くなった。

 天武天皇在位    673年3月20日 - 686年10月1日 686年9月9日に称制

  君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、

  即位せずに政務を執ること

持統天皇在位 690年2月14日 - 697年8月22日

則天武后在位 690年10月16日 - 705年2月22日

高松塚古墳壁画 青龍
高松塚古墳壁画 青龍

葡萄唐草文

林良一によると葡萄唐草文を仏像の台座装飾として使用するのは、薬師寺金堂薬師三尊台座を唯一とする。このような例は中国にもなく、中国でよく見られるのはパルメットの唐草文など。

林良一「薬師寺金堂本尊台座の葡萄唐草文」(『国華』八一〇、昭和三四年〉


パルミラ遺跡の葡萄唐草文

シリアの首都ダマスカスの北東、約215kmのシリア砂漠の中にある

遺跡はISが破壊したが、これらの文化財はどうなっただろうか? 

シルクロードの隊商都市として発展したシリアを代表する遺跡の1つであるパルミラは、アレクサンドロス3世の東征の後に、ギリシア人がパルミュラと称したことによる 。パルミラは、地中海沿岸と東のメソポタミアを結ぶ交易路となり、シリア砂漠を横断するキャラバン(隊商)にとって非常に重要な中継点であった。紀元前1世紀末から3世紀まで、シルクロードの中継都市として発展し、また、交易の関税もあって自立都市として繁栄した。ローマの属州にもなったが、2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブの民は、東のペルシア(パルティア)様式と西のギリシア・ローマ様式の習慣や服装をともに受容していた。

「軍人皇帝時代」にパルミラ帝国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置かれた。しかし、ローマ皇帝アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一に向かわせるとパルミラ攻撃を開始。273年にパルミラは陥落し、ほぼ廃墟と化した。その後パルミラは、東ローマ帝国やイスラム帝国の支配下となった。そしてオスマン帝国の時代になり、17世紀のうちにパルミラの遺跡が再発見された。

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